社長インタビュー
樺電工業の歴史&今後の目標
- 本日は平沼社長に、樺電工業の歴史と今後の目標についてお話を伺います。まず、社名の由来をお聞かせください。
- 平沼社長(以下、平沼) 「樺電工業」の「樺」の字は、実は、樺太(からふと)から取ったんですよ。
- 樺太というと、ロシアの?
- 平沼そうです。私の親父は仙台生まれなんですが、仙台の工業学校で電気工学を勉強した後、昭和12年頃、樺太に渡ったんです。三男坊だったので一旗あげる気持ちだったのでしょうね。当時の樺太は日本の領土でした。
- ではお父様は、樺太で電気工事会社を立ち上げられたのですか。
- 平沼いえ、「樺太配電株式会社」という北海道における北海道電力のような電気を供給する会社に勤めたそうです。北部の敷香(しすか)という町の営業所に勤務し、工務主任まで務めたそうです。この時、親父は後の有名人に出会っているんですよ。
- 有名人ですか!どなたでしょう。
- 平沼昭和の人気力士、横綱大鵬(たいほう)です。彼は敷香町で、ロシア革命後に樺太に亡命したというウクライナ人のお父さんと日本人のお母さんの間に生まれてるんですね。
- それはすごい。
- 平沼はい。親父は生前、樺太のことはほとんど語りませんでしたが、大鵬関が若手の有望力士として頭角をあらわしテレビにも出るようになった頃、父は一目見るなり「あの家の子どもに間違いない」と言ってテレビにかじりつき、もちろんファンになりました。父が言うには、大鵬関の生家に電気メーターの検針に行っていたんだそうです。それ以来、このことは父の自慢話になりましたね。
- 樺太ではきっとお辛いこともあったでしょうから、良い思い出でしょうね。
- 平沼そうですね。大鵬関を通じて、若き日の自分を思い出していたのかなと思います。
- お父様は終戦後、北海道に移られたのですか。
- 平沼はい。終戦後、樺太配電の社員たちが集まり、北海道で電気工事業を目的とする「樺太配電興業株式会社」を創立したんです。札幌を中心に6か所に事業所を構え、親父は函館営業所の所長として、昭和24年に函館に着任しました。
- 終戦を乗り越えての新天地での会社創立、皆さん、燃えていらっしゃったことでしょう。
- 平沼ところが、この会社は創立まもなく諸問題が起きたそうで…たった2年で解散することになったんです。
- それは大変。
- 平沼6か所の事業所それぞれは、責任者を中心に独立の形で電気工事業を続けることになりました。親父も自分が社長となり、社名を少しだけ変えた「樺電工業株式会社」を函館で開業したんです。昭和26年3月のことでした。独立したのだから「平沼電気」でも良かったはずですが、親父は若き日に仕事に打ち込んだ樺太への思い入れが強かったのか、「樺」の字を残しました。 ちなみに現在、「樺電興業」にルーツを持つ電気工事会社で存続しているのは、残念ながら当社だけのようです。
- 「樺電工業」設立の場所はどちらですか。
- 平沼設立はここ、現在の当社がある函館市港町です。自宅兼会社でした。親父のほか、社員が1人か2人いたと思います。当時は車もないような時代でしたね。すぐ近くに立ち飲み屋さんがあって…朝から酒をひっかけて現場に行って、夜も帰ってきたら「お疲れさん」でまた一杯。昔の電気屋は今では考えられないくらい荒っぽかったですね。私が物心ついた時には、社員が4~5人に増えていました。
- 設立当時はどんな仕事が中心だったのでしょう。
- 平沼昭和20年代の函館は、街の中心であった西部地区には電気が引かれていましたが、少し郊外に出ればまだまだ電気がいきわたらず、一般家庭ではランプをつかっていました。港町の我が家もそうで「電気屋なのにランプかよ」って笑ってましたね。当時、当社の中心業務は電信柱をたてることです。あの頃は木の柱でした。時間送電なんてのもあって、時間を区切って電気を供給するんです。夜10時で電気がストップするから、時間を気にしながら生活していました。昭和30年代に入ってからはそういったことも無くなっていきました。
- 電信柱をたてたということは、戦後の函館の街づくりに貢献されたんですね!樺電工業の皆さんは、若くして大仕事を手掛けられ、会社も順調に伸びていったのですか。
- 平沼ところが順風満帆ではなかったんです。実は親父は、働き盛りの46歳の時に病死してしまいまして。
- えっ、そうだったんですか…。
- 平沼会社は、母が経営を引き継ぎました。昭和35年、私が小学校5年生の時のことです。
前列の和装女性が二代目社長 平沼智子。学生服の少年が現社長(昭和36年撮影)
- お母様、ご苦労されたでしょうね。
- 平沼はい。業種問わず女性の社長が珍しかった時代です。また、電気工事や建設業というのは男ばかりの荒っぽい業界ですからね。好奇の目で見られたり、先行き大丈夫なのかと心配されたり。苦労したようです。私の手元に、昭和50年、北海道新聞に掲載された母の特集記事があります。引き継ぎ当時についての母の回想が、こんなふうに紹介されています。 「最初は『自分のやっている仕事がどういうものかを体で覚えなければ、どうにもならない』と、毎日現場に出て行って、ペンチ片手に電工と一緒に仕事をしました。そんな毎日が十年ほど続きました。」「主人が生きている間は経理を担当し、外に出ることがなかったので、お客さんとキチッと応対できるようになるまでが大変でした。相手は女の電気屋ということで知っているが、こっちは顔と名前が一致せず、あとでハッと気づくことがしばしばでした。」
- 危機を、どんなふうに切り抜けたんでしょうか。
- 平沼母も頑張りましたが、当時在籍していた約15人の社員が本当によく頑張ってくれたそうです。この頃から、電信柱をたてて街に電気を供給する、いわゆる外線工事は、電力会社が直轄でやるようになっていきました。しかし運よく、北海道にも高度成長の波が来て、建築に付随する電気工事や道路照明などの仕事の量が増えました。昭和30年代には、函館市役所からの仕事を手掛けるようになっていたようです。八幡坂の道路照明も当社が施工させていただきました。昭和63年から平成元年にかけては、ふるさと創生資金を使ったハリストス正教会、ヨハネ教会、ペリー提督像のライトアップも当社でやりましたね。
- おお!函館の夜景は、樺電工業の皆さんが作ったんですね!
- 平沼いやいや、夜景のごく一部ですけれどね(笑)。地域のお役にたてていることは嬉しいことです。
観光名所、八幡坂の電気工事(昭和30年代撮影したと思われる)
- 社長はいつ会社に入られたんですか。
- 平沼私は昭和51年に入社しました。大学卒業後、専門学校で1年間経営を学び、2年ほど東京の大手の電気工事会社に勤務して、それからです。
- 入社前に修行されたんですね。どんなことを学びましたか。
- 平沼はい。横浜支社で営業を経験しました。電気は技術系の仕事ですけれど、均一の物を作る製造業とは違う。「サービス業なんだ」ということを強く感じましたね。 あと、基本的に電気の仕事は受注産業なんです。引き合いがあって初めてスタートなので、ともすると仕事が来るのを受け身で待ってしまう。でも、それではダメです。建設などの計画を持っている方の情報をいち早くキャッチして、当社の技術力や経験をPRしてこなくてはいけない。公共工事であればその年の事業計画をつかんで、どう営業していくかが大事です。
社員の集合写真(昭和51年撮影)
- お母様からの事業承継は順調でしたか。
- 平沼昭和59年、35歳の時に社長になりました。引き継いだ直後の2~3年は苦しかったです。昭和の終わりは不景気でしてね。売り上げが落ちたし、代替わりを機に独立した社員がいたりして。会社としてはいったん後退しましたが、残ってくれた社員、支えてくれる方たちと「一歩一歩進んでいこう」と力を合わせました。大変でしたが、リストラはしなかったです。
- 平成に入ってからはいかがでしたか。
- 平沼平成に入り函館にもバブル景気の波が届き、工事が増えました。あの頃は営業しなくてもお客さんのほうから連絡がきましたね。マンション建設ブームも起きて、年に2~3棟は大型マンションの電気工事を施工しました。忙しかったですが、苦しい時代に培った結束力で首尾よく取り組めました。
- 御社は、公共工事と民間の工事とどのような割合で受注されていますか。
- 平沼2010年ごろまでは公共工事が多くて、全体の7割くらいを占めていました。今は6割くらいですね。残りは民間の仕事になりますが、NTT関連会社から受注する携帯電話用アンテナ基地局の工事や、JR関連会社から受注した新幹線車両工場の工事など、おかげさまで規模の大きな仕事を受託しています。 函館病院、芸術ホール、道立美術館、ロープウェイ山麓駅・山頂駅、はこだて未来大学、縄文文化センター、函館アリーナ、道の駅「なないろ・ななえ」の電気工事や、函館空港滑走路の照明灯工事なども当社が手がけました。駒ヶ岳が噴火した後には、災害用の観測機器を設置しました。噴火の兆候があったら役所に伝達されるシステムです。
- 函館市民が良く知っている施設の多くの開設に、樺電工業の皆さんが尽力されてきたんですね。社員の方たちが守るべき行動規範、社訓などは決めていますか。
- 平沼はい。社訓は「親切・丁寧・迅速」です。私たちの仕事はサービス産業なので、お客様の希望をくみ取ってそれを素早く実現できるよう、常に考えて行動することを目指しています。同時に営利企業ですから、適正な利益もあげて、会社を存続させていきます。この社訓と品質方針、今年の標語を、毎朝、社員みんなで唱和しています。
- 「今年の標語」とは何ですか。
- 平沼毎年、1月7日の仕事はじめに私が発表するものです。2018年の標語は「変革の荒波を乗り越えよう」。私が日々見聞きした情報や、世の中の情勢を踏まえて…お正月にお酒を飲みながら考えているんです。今回は、ちょうど年末にテレビで「葛飾北斎」の特集をしていましてね。荒波に小船で突っ込んでいく絵を見て、うん!これだ!と。
- 社長が考える、樺電工業の「強み」はなんですか。
- 平沼対応力ですね。何かあったらすぐ行く。すぐお客様の相談にのる。そして時間をかけずに問題解決する。まだまだ完璧ではないと思うので、さらに上を目指していきます。
- 今、この業界もIT化は進んでいますか。
- 平沼はい。昔は役所に出かけて行って打ち合わせして、重い図面をどんと渡されたもんです。今はメールです。この間、質問をするのにお邪魔したら「質問はメールで受け付けるルールです」と。現場管理に関する報告も全てメールになりましたね。 電気工事自体は、昔と同じように配線します。でも、通信関係は無線になりました。工具や測定器もデジタル化されました。当社は最新の機器を揃え、狂いがないよう整備しています。
- 社長の今後の目標は
- 平沼私も、そして従業員の年齢も上がってきました。技術の継承をするために、若い人材を採用したいと思っています。公共工事は減ったといっても無くなるわけではありませんし、電気というものがこの世に無くなったら産業や暮らしが成り立ちませんから、私たちの仕事は今後も必要とされていきます。当社は現在、公共工事の入札参加資格の格付けでAランク、企業体を作るときには頭になります。それだけ、技術力や実績を評価いただいているわけです。地域のためにも、当社をより良い形で継続、発展させていきたいと考えています。
- ほかには何か、個人的な目標はありますか。
- 平沼実は機会がなくて、樺太にまだ行っていないんですよ(笑)。昔、函館からウラジオストクへの直行便があった時代に行けばよかったですね。機会を逸して行かずじまいなので、元気なうちに一度行ってみたいという気持ちがあります。娯楽施設なんかがあるわけじゃないから社員旅行で行く場所でもないので、プライベートで、行ってみたいですね。
- 「樺電工業」のルーツですものね、ぜひ!今日は、たくさんのお話をお聞かせいただきありがとうございました。
- (掲載日:2018年7月 インタビュアー:フリーライター 阪口あき子)